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獅子は踊る⑮~ひみ獅子舞ミュージアム再訪


羽咋方面に行く用事があったので、ドライブがてら 「ひみ獅子舞ミュージアム」 に行ってきました。実は8月にも来ていたのですが、その際にじゅうぶん確認できなかったことがあったので。

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施設内には、過去に氷見市内で行われたイベント等の資料から内容を抜粋したボードが掲示されているんですが、それらをじっくり見る時間がなかったので、今回はそれをチェックしに。こういうものって文献らしきものはないに等しいので、どんな形でもいいから活字になっているものは貴重なんですよ。たぶん。というわけで、自分のためにまとめてみました。


■氷見の獅子舞 ― 出展:特別展 氷見の獅子舞 展

氷見には、獅子舞の盛んな富山県内でも、特に数多くの獅子舞が伝承されている。今日、110数ヶ組余の獅子舞が行われているが、独特のスタイルから 「氷見獅子」 と呼称され、氷見市内はもちろん、能登鹿島郡や羽咋郡、高岡・小矢部川流域のほか、五箇山や呉東地区の一部、遠くは北海道へも伝えられている。

その基本的な型は、典型的な 「百足獅子」 で、カヤと呼ばれる麻や綿布を染めた胴幕の中に頭持ち以下5・6人が入り、高い鼻の朱塗りの天狗面に烏帽子を冠り、天狗の棒を持った天狗と対峙する。鳴物は、大太鼓・笛・鉦を用い、太鼓は主に屋台に組んだ太鼓台に載せる。舞のテンポは、一般に海岸部や町部で早くて、勇壮。十二町や山間部では、比較的遅くて、優美である。

天狗は、天狗の棒や采配・刀を持ち、獅子と対峙するが、舞の内容はたいへん劇的で、獅子殺しのある所では、長時間のやりとりの末、獅子は最後に天狗に打ち取られてしまう。しかし、そこに至るまでの獅子と天狗の舞の所作は、時には激しく、時には優雅で観る者を魅了せずにはおかない。

現在広く行われている獅子舞の起源をいつ、どこに求めるかということは、非常にむずかしいが、江戸時代の中頃以降徐々に広がり始め、明治中頃にはかなりの村々で獅子舞が行われていたらしい。氷見市十二町坂津には、「嘉永元戌申歳 八月吉日」(1848年)銘の獅子頭が伝わるが、おそらくこの頃から明治にかけて、盛んに氷見の村々でも獅子舞が行われるようになったと考えられる。


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■獅子頭 ― 出展:特別展 氷見の獅子舞 展

富山県内で、制作年代のわかる墨書銘のある獅子頭のうち最も古いものは、婦負郡八尾町布谷の紫野神社に伝わる 「文明十三年」(1481年)銘の頭である。氷見では、中世末期に遡ると見られる古い獅子頭が、市内長坂の長坂神社に伝えられている。

今日広く見られる朱漆塗りの、比較的丈の高い頭に比べて、著しく扁平で長く、かつ重い。全体に黒漆が施され、内側と耳の中を朱に塗る。頭内部に持手を付けず、現在獅子舞に用いられているものとはひどく異なった形をしている。

近年獅子頭は、多くは東砺波郡井波町でつくられているが、以前は各地に頭を刳る職人がいた。「源助」、あるいは「源助大工」と呼ばれた氷見市床鍋出身の大工源助もその1人である。今日この源助が刳ったと伝承される獅子頭が、氷見のあちこちに伝えられている。彼の代表作として、池田小獅子、日詰大獅子、三尾大獅子、矢崎大獅子、論田の頭等があげられる。

氷見の獅子頭の多くは桐材を用い、高さ・幅とも30~35cm、奥行(長さ)40~45cmぐらいの大きさで、頭上部に12・3cmの角を1本戴く。表面・内側ともに朱塗を施し、角・耳・口部分を金彩で飾る。目は金塗に黒目、眉は高く盛りあがり、頭上部に黒あるいは白黒混りの毛をのせる。頭内部右方に、金属製の持手が付き、ここを右手で持ち、左手で下顎部分を支えて舞わす。金色に塗られた歯には鋲が打たれ、舞の途中打合わすたびに鋭い音の出る仕組みになっている。


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■獅子の形態 ― 出展:『氷見の祭りと獅子舞』(1984年氷見市教育委員会)

(a)獅子頭は角を頂き、朱塗り。あらい網で胴幕(1.3m x 1.5m x 6.0m 位)と繋がり、尾が最後部につく。総員五名で、竹の輪の使用例は氷見一帯どこにも見られず、当所にも無し。長時間にわたる舞の場合、頭は低く細やかに、胴体は高く大きく動作するのが特徴的。天狗に率いられてグルグル廻ったり、歯を繁く噛み合わせて大きな音を発したりもする。

(b)天狗の装束はほぼ次の通りである。赤顔鼻高の天狗面を下鉢巻で留め、鍬形のついたヨボス(烏帽子)かズッカブソ(しゃぐま)を被る、前者なら白鉢巻で固定する。神官の装束と同型の、赤い”天狗の装”を着、黒繻子三ッ柏の前掛け(胸当て)をし、青・白・桃色のタグリで色が並ぶようにタスキにする。大幅のムスの布地でガッチョ縄(注連縄状)を編んで腹帯にして縛る。綿のカルサン(袴)をはき、同じ布地で作った手甲をし、足袋と草鞋を着ける。天狗は勇壮に獅子と戦う様を演じ、同じ所作が二回繰り返されて一曲が終る(これが”一つ”だが、現存では1回、つまり、”半分”しか舞わさない)。その華麗な舞は定評のあるところで、所作の最後に鼻を高々と三回しごく(”ヤァ-する”という)のが特徴。

(c)採り物は四種 (1)天狗の棒・・・・・・小型の槍か鉾の形で木製、刃と柄の間に紙垂をつける。ほとんどの舞で用いられる。(2)刀・・・・・・単独には「タツフル(太刀振り)」、部分的に「獅子殺し」に用いられる。(3)ナギナタ、房・・・・・・「ヨソブリ」に用いられる。
(d)楽器・・・・・・太鼓、鉦、たて笛
(e)太鼓台は氷見の獅子舞の最も特徴的なもの。鳥居があることと、縄の「舫結び」に注冒。
(f)景気づけの掛け声は「ソリャーサー」。
(g)道化(「ベッサイ」という)は、「まさくれ者な居りゃあ出るわいねん」との話。


■伝播/源流/起源 ― 出展:『氷見の祭りと獅子舞』(1984年氷見市教育委員会)

氷見獅子は何時からはじまったか、記録も伝承もなくて不明である。推測するに、江戸中期に関西方面(?)から導入され、幕末から明治初年にかけて爆発的に広まったものと思われる。他都市の例であるが、射水郡放生津町(現在新湊市)の獅子舞は、天明年間(一七八一~)の頃に全町に一八組の獅子舞があったという。(『新湊市史』 八五一頁)これによって類推すれば、氷見の獅子舞も、早い村ではこの頃まで遡るかもしれない。最近、能登灘の大野木公民館主事から、次のような伝播系統をきいた。

氷見市吉岡 → 七尾市大野木 → 七尾市(国分/中川原) → (金丸/徳田下町)

能登から習ってきたという話はひとつもない。みんな氷見の人が能登の人に教えた話ばかりである。二人立ち獅子は伊勢神楽の系統であると佐伯安一は述べられたが、百足獅子の源流は不明であるという。今後の研究にまたねばならぬ。

次に氷見獅子舞の伝播をのべる。

(1)石川県志雄町・羽咋市、七尾市のうち、氷見市に接近した町村では、氷見から習っていった所が多い。

(2)庄川の上流五箇山地方(合掌造りと平家部落伝説で有名)には氷見獅子と同じものが分布している。これは氷見の大窪大工(加賀藩の御用大工・石動山の山麓に住む)が幕末の頃五カ山へ合掌造りの建築にやとわれてゆき、仕事の合間に氷見獅子を教えたものである。(高桑敬親著 「五カ山の合掌造りと氷見大窪大工」 による)大窪大工高木清三郎が平村上梨の浄円寺の鐘楼を弘化三年(一八四六)に建立したことが現存する棟札に見え、この人が氷見獅子を教えた。それが明治維新前後に五カ山各地に広まったという。(例外もある、氷見獅子以外のものもある。)

(3)北海道岩見沢市大願町に十二町村から習っていった獅子舞があり、この地方の人気芸能となって引っぱり凧になっている。明治十三年以降、大正年間にかけて、富山県から、氷見郡から大量の北海道移民が出かけた。その中に獅子舞の巧者な者がいて、氷見獅子、越中獅子を新開地に移植し、開花させたのである。その一つが大願町獅子舞であり、明治四十一年、十二町村板津出身の宮前松次郎氏が大願町に移住し、大正七年に氷見獅子道具一式を買い求め、新開地の人々に伝授したのがはじめてであるという。

(4) 『富山県の獅子舞』 付図 『富山県の獅子舞分布図』 によると、氷見系獅子は下記の如く広く分布している。

伏木、国分、六渡寺、一ノ宮、長慶寺、頭川、手洗野、長江、北島、内島、石堤、赤丸、渕ヶ谷、高田島、蔵野町、櫛田(大門町)。魚津氏では平沢、北山、観音堂、林、吉野など。上市町では北島、東種など。魚津・上市方面はみな山村であるが、氷見論田の箕売りから習ったと言い伝えられている。


タルさんのふるさと講座

上記の出展資料のうち、『氷見の祭りと獅子舞』 の編纂にかかわった方のブログを見つけてしまいました。高岡市在住だそうな。ネット検索程度の足でたどり着ける獅子舞関連の資料は軒並み10年以上前の記述のものばかりで、獅子舞の今を知るのは心もとなくなています。そこへ来て現在進行形で更新されている大御所のブログにたどり着けたのは、まさに奇貨居くべしであろうかと。

いつかどこかで会うことができればいいかな、なんて。


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