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シェイプ・オブ・ウォーター


― 『 半魚人が家にいると、ちょっと嫌なことがあっても「まあ家に帰れば半魚人がいるしな」ってなるし仕事でむかつく人に会っても「そんな口きいていいのか?私は自宅で半魚人とよろしくやってる身だぞ」ってなれる。戦闘力を求められる冷戦下のアメリカにおいて半魚人と同棲することは有効 』―

自ら発案した作品世界を映像化した作家で、誰もが認めるだろう賞を受賞できた人物をおれは知らない。生活を犠牲にしてまで制作費を捻出し、ようやく世に出た作品が認められ成功者の階段を上る詰めた人物ならば、ハリウッドを見渡せば何人でも想像がつくだろう。しかし、その成功はほとんどの場合一度きりで、作家として名を残すことはできても常に作品を世に出し続けることができていない方が多い。―ギレルモ・デル・トロただ一人を除いては。この初見殺しの作品で、彼は第90回アカデミー賞13部門ノミネート、受賞4部門という偉業を成し遂げた。

幼いころに観たという 『大アマゾンの半魚人』 というモンスター映画に登場する ”ギルマンとジュリー・アダムスが結ばれていたら” という 「もしも」 と、主演女優のサリー・ホーキンスが構想を練っていた ”かつて人魚だったことを忘れてしまった女性の物語” (これでイライザが発話できないことに納得がいくのだが)とが見事に溶け合って形作ったこの 『シェイプ・オブ・ウォーター』 、何も知らずに観たならば半魚人と中年女性の恋愛というプロットなど気持ち悪いだけだが、この制作にいたるまでのエピソードのひとつである小さな奇蹟を知れば、映画好きなら俄然興味が湧くだろう。なにしろ、この作品の監督はあのギレルモ・デル・トロなのだから。

ダグ・ジョーンズは相変わらずスーツを着ている。 『ヘルボーイ』(2004年)・『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』(2008年)で彼が演じたエイブ・サピエンと同様に今回も半魚人だ。おまけに好物まで同じ(卵)ときてる。”ギレルモ・デル・トロの新作映画には半魚人が登場する” と知って真っ先にダグ・ジョーンズの名前と彼が演じたエイブ・サピエンを思い浮かべたおれは、どれだけ話題になろうともすぐには 『シェイプ・オブ・ウォーター』 を観る気分にはなれなかったのだ。

半魚人と人間の女性が恋に落ちるだなんて、突飛な話をどうしたら受け容れられるのだろう ―1956年リリースのベニー・グッドマンのアルバム 「The Great Benny Goodman」 と グレン・ミラー楽団(ミラー自身は1944年に行方不明となっている)が演奏した 『グレン・ラー物語』 のコンピレーション・アルバムを聴き比べながら心を通わせ、「彼はありのままの私を見てくれる!」 だなんて台詞(手話だけど)をどうしてロマンチックと呼べるのだろう。

映画はときに上手に嘘をつくことがある。『ゼロ・グラビティ』 ではあんなに短時間で与圧された国際宇宙ステーションの中には入れないし、オムツだって穿いてなきゃいけない。でも、リアリティをそこに求めてはいけないのは分かるだろう。カプセルから脱出し、ようやく地上に帰還して ”重力” に足を取られて苦笑いするサンドラ・ブロックの表情よりも、水分を含んでパンパンに膨らんだオムツが視界に入ったらすべてが台無しになるからね。真面目に減圧するまで待っていたら2時間では終わらない。だから、映画には嘘が必要なときがある。

たしかにサリー・ホーキンスの演技は素晴らしい。声が出せないという役柄を豊かな表情で見事にイライザが胸に秘めてきた感情を表現しきったと思う。孤独から解き放たれてどんどん綺麗に輝いていく瞳には正直グッときた。愛情というものには決まった形はなく、液体のように様々な姿を形作る。でも、それを映画を通して伝えるために本当に半魚人が必要だったのか。

劇中ではうやむやに語られたイライザの出自(橋の下に捨てられていたらしい。昭和か)と首の両側にある傷の由来を、”人魚だったのかもしれない”という嘘でもあれば、「これはファンタジックなラブストーリーなのだ」 という取っ掛かりが生まれ、そこから作品に散りばめられたいくつもの暗喩を読み解くことができたかもしれない。

きっと、乱暴に扱われる半魚人からは移民問題を、ジャイルズがゲイと分かるや否や嫌悪するパイ屋からは差別主義者を、ストリックランドのまるで精密機械のようなピストン運動のシーンからは男根崇拝を、それらの要素を敏感に読み取ることができる者だけがこの作品世界を初見から受け入れることができるのだ。


おれは映画を観るのが下手くそになった。




(おっぱいと陰毛については割愛します)


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