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JOKER


嬉し涙は右眼から出るのだそうで。だったらアーサーはあのとき泣いていたんだろう、笑っていたんだろう。

というわけで、世間様のほとぼりが冷めるのを待って 2019年公開の 『JOKER』 を BD視聴。こういう映画ってどんな気分のときを選んで観るべきなんでしょうかね。アメコミヒーローのバットマンに登場するヴィラン(敵役)の中でも特に有名なジョーカーがいよいよ誕生しちゃうエピソード(ハリウッドってネタ切れなのかこんなプロットの作品よく創るよね)を描いた作品。

楽しい映画悲しい映画いろいろあるけれど、どちらかと言うとこの映画は、悲しい方かな。そんな内容だというのが分かっていて、どんなときにそれを観ろというのだろうか、なんてずっと思っていたところ不意に気が向いたので。

肝心なところはいつも匂わせてばかりで、ラストシーンはいったいどの時間軸で描かれたのか謎を残したままと、とてもずるい作品でしたが、これまでいくつもの 「バットマン映画」 を観てきた身としては、やはり過去の作品に登場してきたジョーカーとの比較をしてみたかったわけです。

特に今や多くの人の心に残るあの 「ダークナイト」 のジョーカー、ヒース・レジャーの演技がとても迫真に迫っていて怖かったですよね。単純にただ怖いのではなく、本名や出生についての記録もなく、ただ突然目の前に姿を現し、目的も理由も表明せずにひたすら ”正義” を挑発するように犯罪を犯す―。

これほどまでに不気味である意味スッキリする ”悪” って、今まで存在しなかったんじゃないかなというほどのヴィランでありながら、一方で 「誰しも心に光の届かない闇を隠している」 と観た人に問いかけるような目と笑い声からは、一度触れたら逃れられない。そんなキャラ立ちの際立つ作品があったあとでの同じ役というのは演じにくかったとは思いますが、勝ち負けではないしそもそも演出面でのアプローチが違うとは分かっていながらも、やっぱりホアキン版は分が悪いかなと。

唯一ハッとさせられたのは、トーマス・ウェインの発言によって群衆がピエロのマスクを被って蜂起し、ゴッサム・シティを炎に包んでいくシーン。たしかにこの作品の主役は ”ジョーカー” と名乗ったアーサー・フレックなのだが、本当のジョーカーとはあの暴徒と化した群衆の中にいた多くの名も知らぬ”誰か”=”誰もが”ジョーカーなのではないか、そう考え始めたとたんにこの作品がとても興味深いものになった。そして、あの有名な階段を米津玄師のように踊りながら降りていくシーン。ほかのシーンではずっと暗い場面だったのに、意気揚々と踊るなのシーンだけは光を浴びているんですよね。ついに”何者でもない自分”にスポットライトが当たったかのように。

それくらいに”ジョーカー”としてのロールモデルとなったアーサーの人生そのものは、ラストのカタルシスを迎えるに至るまで同情を通り越して悲劇でしかなく、共演のデ・ニーロよろしく役作りのために過剰にやせ細り、リボルバーを構えて一人語りをするシーンなんかはもう、あざとすぎて呆れちゃうくらい。

同僚から譲ってもらった38口径の誤射も含めてリボルバーなのに再装填もなしに9発という発射数(1発目は自宅での誤射、残りは地下鉄の車内やプラットフォームで8発を3人の酔っぱらいに浴びせた)は、使用された拳銃が装弾数6発のコルト・ディテクティブスペシャルということが本当ならば、なぜこんなミスを?としか思えず、一気に目が覚めてしまいました(

そんなところをいちいち突っ込んじゃってちゃ、映画なんて楽しめないぞと思うのですが。


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シェイプ・オブ・ウォーター


― 『 半魚人が家にいると、ちょっと嫌なことがあっても「まあ家に帰れば半魚人がいるしな」ってなるし仕事でむかつく人に会っても「そんな口きいていいのか?私は自宅で半魚人とよろしくやってる身だぞ」ってなれる。戦闘力を求められる冷戦下のアメリカにおいて半魚人と同棲することは有効 』―

自ら発案した作品世界を映像化した作家で、誰もが認めるだろう賞を受賞できた人物をおれは知らない。生活を犠牲にしてまで制作費を捻出し、ようやく世に出た作品が認められ成功者の階段を上る詰めた人物ならば、ハリウッドを見渡せば何人でも想像がつくだろう。しかし、その成功はほとんどの場合一度きりで、作家として名を残すことはできても常に作品を世に出し続けることができていない方が多い。―ギレルモ・デル・トロただ一人を除いては。この初見殺しの作品で、彼は第90回アカデミー賞13部門ノミネート、受賞4部門という偉業を成し遂げた。

幼いころに観たという 『大アマゾンの半魚人』 というモンスター映画に登場する ”ギルマンとジュリー・アダムスが結ばれていたら” という 「もしも」 と、主演女優のサリー・ホーキンスが構想を練っていた ”かつて人魚だったことを忘れてしまった女性の物語” (これでイライザが発話できないことに納得がいくのだが)とが見事に溶け合って形作ったこの 『シェイプ・オブ・ウォーター』 、何も知らずに観たならば半魚人と中年女性の恋愛というプロットなど気持ち悪いだけだが、この制作にいたるまでのエピソードのひとつである小さな奇蹟を知れば、映画好きなら俄然興味が湧くだろう。なにしろ、この作品の監督はあのギレルモ・デル・トロなのだから。

ダグ・ジョーンズは相変わらずスーツを着ている。 『ヘルボーイ』(2004年)・『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』(2008年)で彼が演じたエイブ・サピエンと同様に今回も半魚人だ。おまけに好物まで同じ(卵)ときてる。”ギレルモ・デル・トロの新作映画には半魚人が登場する” と知って真っ先にダグ・ジョーンズの名前と彼が演じたエイブ・サピエンを思い浮かべたおれは、どれだけ話題になろうともすぐには 『シェイプ・オブ・ウォーター』 を観る気分にはなれなかったのだ。

半魚人と人間の女性が恋に落ちるだなんて、突飛な話をどうしたら受け容れられるのだろう ―1956年リリースのベニー・グッドマンのアルバム 「The Great Benny Goodman」 と グレン・ミラー楽団(ミラー自身は1944年に行方不明となっている)が演奏した 『グレン・ラー物語』 のコンピレーション・アルバムを聴き比べながら心を通わせ、「彼はありのままの私を見てくれる!」 だなんて台詞(手話だけど)をどうしてロマンチックと呼べるのだろう。

映画はときに上手に嘘をつくことがある。『ゼロ・グラビティ』 ではあんなに短時間で与圧された国際宇宙ステーションの中には入れないし、オムツだって穿いてなきゃいけない。でも、リアリティをそこに求めてはいけないのは分かるだろう。カプセルから脱出し、ようやく地上に帰還して ”重力” に足を取られて苦笑いするサンドラ・ブロックの表情よりも、水分を含んでパンパンに膨らんだオムツが視界に入ったらすべてが台無しになるからね。真面目に減圧するまで待っていたら2時間では終わらない。だから、映画には嘘が必要なときがある。

たしかにサリー・ホーキンスの演技は素晴らしい。声が出せないという役柄を豊かな表情で見事にイライザが胸に秘めてきた感情を表現しきったと思う。孤独から解き放たれてどんどん綺麗に輝いていく瞳には正直グッときた。愛情というものには決まった形はなく、液体のように様々な姿を形作る。でも、それを映画を通して伝えるために本当に半魚人が必要だったのか。

劇中ではうやむやに語られたイライザの出自(橋の下に捨てられていたらしい。昭和か)と首の両側にある傷の由来を、”人魚だったのかもしれない”という嘘でもあれば、「これはファンタジックなラブストーリーなのだ」 という取っ掛かりが生まれ、そこから作品に散りばめられたいくつもの暗喩を読み解くことができたかもしれない。

きっと、乱暴に扱われる半魚人からは移民問題を、ジャイルズがゲイと分かるや否や嫌悪するパイ屋からは差別主義者を、ストリックランドのまるで精密機械のようなピストン運動のシーンからは男根崇拝を、それらの要素を敏感に読み取ることができる者だけがこの作品世界を初見から受け入れることができるのだ。


おれは映画を観るのが下手くそになった。




(おっぱいと陰毛については割愛します)


EX_MACHINA


台風が過ぎたあともずっと雨続きで、遠出をする気分にもなれないので久しぶりにBDで映画を観ることにしました。2016年のアカデミー視覚効果賞受賞作品だとか、ダニー・ボイルの盟友で 『28日後・・・』 の脚本家の監督デビュー作だということも知らず、出演者に 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 でポー役を演じたオスカー・アイザックがいるということと、ソノヤ・ミズノの陰毛が見える見えないくらいの前情報で挑みました。

気になる映画というものに関してはついつい事前に検索してしまって、実際に観ようというころにはすっかり冷めてるというのがここ数年のパターンで、世間が忘れるころにならないと純粋な気持ちで鑑賞できないんですよね。んで、この作品を観るまでに3年かかったと。そしてどんなに情報を遮断してもその隙間をぬって頭に飛び込んで来たのが陰毛が見える見えないだったことに震えながら、小学校一年生の次男とふたりで鑑賞しました(

さておき、ラストのエヴァの笑顔、最高じゃないですか。思わずゾッとしちゃいましたもん。そのあとどうやってケイレブを迎えに来たヘリのパイロットを言いくるめて脱出したかとか、エネルギー源はそもそもなんなのさってことなんかをツッコむのは野暮だとして、洗練された映像に浸りながらの100分間、唸りっぱなしでしたね。やるなあ、なんて。

もともとミニマムな構成の物語が好きなほうなので、この映画のように限定された場所と少ない登場人物との間で繰り広げられる会話劇は大好物。チューリングテストを受けているのはエヴァなのに、いつしかケイレブの方がおかしくなっていくのも面白い。そして突如始まるキョウコとネイサンとのイケイケ(死語)なダンス・シーンに思わず 「おれは一体なにを観させられてるんだ」 という気持ちになりました。このへんの緩急の巧みさも作品を印象付けるアクセントになっていると思います。だって、ほとんどのシーンが半透明の筐体に身を纏った AI との会話ばっかりですからね。

そうそう、その AI であるエヴァが(ケイレブの意識を揺さぶるために)人間の服を着た姿で現れたあと、それを脱ぐ様子を監視カメラで眺めながら喉をゴクリとやるケイレブのシーン、あれで完全にケイレブが陥落したなと分かりました。そういう細かな積み重ねがラストの絶望感に活きてくるんだなあ。

ケイレブ役には 『ピーター・ラビット』 のドーナル・グリーソン。良い人なのか悪い人なのか、賢いのか馬鹿なのか掴みどころのない演技が本当にうまくて、作品にリアリティを与えています。オスカー・アイザックは演技プランが濃すぎて眩しいですねえ。それが逆にありきたりなIT起業家のような感じだったらつまんなかったと思いますが、よくぞ出オチみたいな恰好で出てきてくれたと思います。

最後に、気になる陰毛にはボカシはなかったことよりも、アジア系女性をあくまでもステレオタイプとしての役回りしか与えていないように感じることが散見されたのが真面目に気になりました。クローゼットに押し込められた失敗作の AI のひとつがいかにもガイジンが好きそうな、まるでアメコミにでも出てくるかのようなアジア系女性の風貌だったもんな。そういうのをうるさく言いはじめると、窮屈になっちゃうのかな。


アラジン


富山県民ならば、”アラジン”という名を聞けば即座に完全無欠のロックンローラーを思い浮かべる向きもありますが、ふと懐かしい名前を思い出してかの名作のBD/DVDセットを買ってみました。

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1992年製作のディズニー作品、 『アラジン』 でございます。

これってたしかLDで持ってたような気がするんだよなあ・・・。監督は 『リトル・マーメイド』 や 『モアナと伝説の海』 のコンビ、ジョン・マスカーとロン・クレメンツ。2019年6月にはガイ・リッチーを監督に迎えての実写化が予定されていますが、同じく名作の 『美女と野獣』 があれほどアニメ作品として完成されていたのにそれを実写化しちゃったりするような野暮さがまた出ちゃったのか・・・と思いきや、なんとジーニー役にウィル・スミスが青塗りでキャスティングと聞いて俄然観る気が湧いてきたのも今回のBD購入の動機のひとつでもあります。


DSC04427

アニメ版の声優はロビン・ウィリアムズ。90年代に彼が出演した作品はほとんど観ていることもあってか、ジーニーといえば彼を思い浮かべるほどに、何度観ても画面から目を離せない魅力でいっぱいでしたねえ・・・。超久しぶりに観たわけなんですが、動きやセリフ回し(英語)のひとつひとつを覚えていたことに我ながら驚きました。

ちなみに高原兄さんとは会って話をしたことがあります。



LOGAN / OLD MAN LOGAN


誰にも止められないわ・・・

もう、はじまっているからね・・・


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劇中に登場するミュータントの子供たちが、まるで 『AKIRA』 のナンバーズ(・・・の若いころ)のようにも見え、マイノリティを虐げ続けてきた現実社会を暗喩し、ただやみくもに”自分たち以外”を畏れ嫌悪感に苛まれる人間たちへの皮肉を込めた原作コミックの設定なんかすっ飛ばして、ケチャップをたっぷりかけたお子様ランチのオムレツが出てくるような安いファミレスのような作品でしたね。

終盤のシークエンスでは”わるいおとなたちをやっつける” カタルシスもなんもなく、ただの特殊能力お披露目大会止まりだったのはどうもね・・・。

また、そんな彼らを捕えようとする機関職員たちの振る舞いを見て思い出したけど、『E.T.』 のときなんか、宇宙人をかくまう子供たちを追う捜査当局の大人たちの持つ拳銃をあとから無線機に修正するなんてことを公開から何年も経ってやったはず。なのにまた逆戻りじゃねーか。”R-15指定”すればそれで良し、みたいなお飾りの規制なんかでは暴力は排除できないことをまだ分からないのか。

プロフェッサーXとウルヴァリンの最後の幕引きのあとにはかつての理想郷への夢を引き継ぐものはなかった。アメリカ人はいつまでメキシコへの逃亡に憧れるつもりなんだろうか。その時代の社会性を描くのが映画の意義ならば、彼らはもうあきらめてしまったのだろうか。

最後に、ラストでローガンはひとときの安らぎを得たわけだが、ローラとの関係性の構築が希薄なので、『レオン』 のような揺さぶられる感動もなかったのがとても残念だった。粗野だが心根の優しい男と大人を信用していない少女との逃避行ってだけでもアツアツポイントが期待できたのに、遺伝子上のコピーってだけで 「パパ」って言わせるなんて、これ脚本からしてダメなような気がする。

もしかしたら、自分の頭がすっかり古くなってしまい、映画というコンテンツの因習をなんでも踏襲しないと納得できなくなったのだろうか?観る前にほぼラストが分かってしまう作品だけれど、だからこそきちんと見送りたかったんだ。失われた輝かしい日々、悲しい結末、前へと進む強い力、それらがあってこそ映画というのは強く心に刻まれるものだと思うのだが。


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